古い写真と地図を整理していてフと思ったこと・・・
人間の記憶は何を契機に記憶されるんだろうか?昔の山登りでも、写真や地図があれば記憶が辿れやすいことはあるが、それがなくても鮮明に覚えていることがあるし、まったく忘れてしまったこともある。写真は大雪山なのだが、ここを歩いたのは覚えているか、この景色は忘却の彼方!そんなもんでしょう。
古い地図と写真を見ながら記憶に残っていること、思い出したことを書いてみる。記憶がなにによってなされるか?少しは分かるかもしれない。
★印のある写真・地図はクリックすれば詳細ページに移行します。
なお、写真は国土地理院5万図、または1/25000図を元に必要箇所を切出し、400×300pic以下に縮小しています。
■六甲山
逆瀬川の連続堰堤を見ながら登って焼石が原(今は死語)にテントを張った。どうも体調不良が続く。河原のテントサイトではクイナが鳴いていたのを覚えている。翌日も体調が良くなく、六甲最高峰から有馬に降りてそこで撤退し、悔しい思いをした。1967年5月 ※写真 国土地理院25000図から 399×300pic
■金剛山-葛城山
夏合宿前の調整の山行。紀見峠のどこかにテントを張ったがちょっとした高台だった。この日も調子が悪く食欲なし。ルートに有名な峠は多数あるが、覚えているのは、行者杉と久留野峠。久留野峠は笹原の中の鞍部で今よりもう少し木々の生え込みがあった。涼しい風が吹いてきて生き返った気分になったのを覚えている。下山後富田林の先輩の家によんでもらった。
1967年6月17-18日※写真:国土地理院5万図から399×293pic
■石狩岳-大雪山縦走
石狩岳からトムラウシ経由大雪山へ縦走した。印象順でいうと、1)トムラウシ、2)平ヶ岳、3)石狩岳。残念ながら大雪主峰旭岳の印象はコマクサだけ、初日に登ったらしいニペソツは全く覚えていない。元来、日高縦走のはずだったが、ヒグマ事故があって入山を自重し、そのフラストレーションがあったのかも(今もある)。1967年7~8月※写真★トムラウシ遠望
■六甲全山縦走
塩屋6時発、菊水の山頂直下にヤマツツジが咲いていた。市ガ原までは快調だったが、摩耶の登りでヒダル神に取り憑かれ動けなくなった。ここでだいぶん抜かれた。ほうほうの体で茶店まではい上がりメシを食うとすっかり回復した。これにより、スイーパーと一緒に歩くことになり、宝塚についたら真っ暗だった。よく考えたら、パンやジュースを買おうにも日曜日の朝早くから店は開いてない!2年目はちゃんと学習して、宝塚(塩尾寺)は明るい内に着いた。1967年12月10日※写真 昭文社六甲山登山地図・昭和42年(赤松滋氏執筆)
ボクはトレイル志向ではなく、若狭越を調べてみたい気がしている。
■丹波・長老岳
当時京都に住んでいたので日帰りができそうということで丹波の山も選んだ。 三埜から入って上乙見に降りた。ちょうど残雪期で、ブナ等の落葉樹の周囲だけが融けていることで春の訪れを感じていた。帰りは和知まで歩いた。1970年3月単独※写真 国土地理院5万図から 長老岳
圧巻は山の黄葉だった。あんなすごい黄葉は見たことがない。息を飲むとはこういうことか!と思った。地図に狂小屋という地名があり、ちょっと気持ち悪かった。心に残る良い山行だった。(4名)
■坊村の鯉の洗いと
武奈ヶ岳
なんという山行や!坊村でコ
イの洗いを堪能し、翌日は武
奈ヶ岳。先輩のNさんが、2
Fから「鯉一匹!」と追加注
文するのでびっくりした。洗
いはもちろんだが、コイコク
は絶品だった。たらふく食べ
て飲んで、へべれけ!
翌日の武奈ヶ岳は全く覚えていない。(3名)1976年12月18-19日 ※写真 国土地理院5万図から 坊村
■こんどは快晴の白山
9年前の白山は真っ白けだったが、今回は快晴だった。それはいいのだが、山の様子はさっぱり覚えていない。帰りは岩間温泉からだったが、岩間温泉からのバスが結構なスピードで崖っぷちを飛ばし、それが一番怖かった。この山行から自前のカメラを買った。Canon A-1 FD30-105 Zoom 1978年7月※写真★白山だが、どのピークなのか?
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