1978年7月
今度は晴れだった白山。研究室先輩のSさんと同行。よい山行だった。
・・・・が、どこを堂通ったか、内容は全然覚えていない。
この山行から自前のカメラを買った。Canon A-1/FD30-105Zoom。今見返してみると、この頃の写真は色あせが少なく、まあまあ見える(スキャナで若干色調整・復元したけど)。
7541978年7月
今度は晴れだった白山。研究室先輩のSさんと同行。よい山行だった。
・・・・が、どこを堂通ったか、内容は全然覚えていない。
この山行から自前のカメラを買った。Canon A-1/FD30-105Zoom。今見返してみると、この頃の写真は色あせが少なく、まあまあ見える(スキャナで若干色調整・復元したけど)。
7541973年7月末
あこがれの南アルプスだ。それも北アルプスも南ア北部もすっぽかして、いきなり聖~赤石だ!まあ、初めての南アなので、そこは最もポピュラーな畑薙大吊橋コースにする。
コースは以下・・・・
0.大阪-夜行列車-静岡
1.静岡-畑薙ダム-畑薙大吊橋11:20-峠11:45-12:05コンター1100m12:40-ウソッコ沢小屋-△横窪沢小屋
2.△横窪沢小屋5:40-8:30茶臼平-9:05トラバース-10:00上河内岳肩-△聖平小屋
3.△聖平小屋5:05-5:35薊畑上-6:15小聖岳-7:30聖岳7:55-9:00鞍部-9:30兎岳肩-10:20P2748■10:45-11:30中盛丸山11;45-12:30百間洞13:05-13:55百間平下-14:35コンター2800台地-15:20標高2950m付近-16:00赤石の肩-16:20赤石岳・△赤石避難小屋
4.△赤石避難小屋7:00-8:00降り口-8:20カール-9:25富士見平9:45-10:00赤石小屋10:30-11:00コンター2300付近-12:00標高1750m付近-12:40コンター1500-13:15椹島-14:45日影沢付近-赤石渡付近でトラックに乗せてもらう-草薙ダム-△赤石温泉
1969年8月13〜20日
8/13-14 大阪−小出−大湯−駒の湯TS
8/15 TS8:00−11:00栗の木の頭−鎖場−12:50小倉山−14:40百草の池−16:25駒の小屋
8/16 駒の小屋8:00−8:05駒ケ岳−11:25檜廊下−13:15中ノ小屋
8/17 中ノ小屋5:20−6:50小兎岳−7:55兎岳−10:30大水上山−12:00P1592(現P1610)の手前からブッシュ−14:30コンター1700m、今の藤原山付近は絶好のTS−16:30藤原山(今のニセ藤原山)TS
8/18 TS5:20−11:40剣ヶ倉山−14:45平ガ岳TS
8/19 TS平ガ岳散策11:15−12:05鷹の巣清水−15:20分岐−16:10鷹の巣−尾瀬口山荘
8/20 銀山湖−銀山平−小出
その後は快晴につぐ快晴だ!ボクは気象係で天気図をつける役なのだが、全部サボった。天気予報が連日晴れと行っているので。
8/14
8/12までは集中豪雨で只見川氾濫で大変だったらしい。小出でどろどろのO君と合流。
8/15
夏合宿は雨、風、霧で散々な目に遭ったがその二の舞いかと恐れたが、8/15のお昼頃から晴れてきた。
駒ヶ岳からは絶景だったらしいが、あまり覚えていない。
8/16
駒ヶ岳でご来光!
檜廊下は確かに痩せ尾根であるが、それより小さなアップダウン、木の根の段差を乗り越えるので必死だった。その合間にはお花畑が広がる素晴らしい回廊だった。
のっけからよくわからん写真。多分、中ノ岳を北から見ていると思うのだが。
荒沢岳
8/17
中の小屋、中ノ岳からの八海山のガレは見るからに恐ろしかった。あんなとこ誰がいくんや!ということでピストン中止。
兎岳を超えた鞍部で、ボクとU君が巻倉沢に200mほど下って水をとりにいったというが、全然覚えていない。雪渓があったという。これ以後平ガ岳までは水が取れなかった。
兎岳あたりから正面に中ノ岳、右手に駒ヶ岳を見る。
大水上山あたりから、利根川水源の稜線と遠く平ヶ岳を望む。左一番奥は燧ヶ岳。
大水上山からもしっかりとした踏み跡があった。
12:00 P1592(現P1610)の手前からブッシュになったが、そう酷いものではない。
14:30 今の藤原山付近は絶好のTSだ。そこを過ぎるとブッシュがひどくなり道が不明。
※今は従来の藤原山の位置はニセ藤原山。今の藤原山はコンター1700mの尾根が南に折れ曲がるあたりだ。
ニセ藤原山付近から、剣ヶ倉山とP2072と平ヶ岳のスソ(多分)
8:18 剣ヶ倉山へ、ササブッシュだがそんなにひどくはない。
この写真がどこか分からない。なだらかな稜線の具合をみると、剣ヶ倉山あたりから北をみたものと思うのだが、それにしては大水上山がはっきりしない。
剣ヶ倉山を過ぎればブッシュはなくなり平ガ岳は目前だ。
のんびりとあるく。歩くより休憩が多かったような。
平ヶ岳は目前だ
14:45、平ヶ岳着
最後に残った水1Lで4人で乾杯。何もいうことがないほどの楽園だ。
8/19 午前中散策と昼寝。ブッシュの苦闘はそれほどでもなかったが、それなりに緊張したのは事実だ。なにしろエスケープルートがない。これに対する弛緩も許されて良いだろう。
下山は快速で降りた(近年開かれた台倉山コース)。
夜は尾瀬口山荘で本当の乾杯だ。
8/20 銀山湖で遭難者に花束を手向けておいた。合掌。
■予想以上にブッシュが少ないという嬉しい誤算もあったが、自分の企画の中でが会心の山行だった。今までを考えてもベスト山行になると思う。
1969年7月24日〜8/2
7/24 大阪駅 22:17新潟行き鈍行らしい
7/25 金沢−椿原−加須良(廃村)TS
7/26 TS−桂ー境川探索−桂TS
7/27 TS6:45−加須良−蓮如岩12:20−14:30横谷−16:10馬狩TS
7/28 TS5:50−9:50三方岩岳10:25−雨、濃霧−10:55馬狩荘司山12:45−野谷荘司山−14:40もうせん平神庭の池TS
7/29 TS6:30−7:40妙法山−10:20シンノ谷出合−また雨−12:27ゴマ平ヒュッテTS
7/30 停滞
7/31 TS0:05−間名古の頭−12:10室堂平ヒュッテ(雨、風、濃霧まったく見えない)
8/1 TS7:10− 9:45大白川ダム10:40−11:45間名古谷12:20−14:20平瀬
加須良から蓮如岩の峠に向けて遡行。ワラジ、地下足袋の沢装束で難儀したらしいが、特に滝のような大きな困難はなかったようだ(詳細記憶なし)。下りも同様。
蓮如岩は確かに見えた。結構記憶に残る峠だった。
7/24 乗ったのは新潟行き鈍行らしい。こんな列車があったんや!と改めてびっくり。
7/25 満員のバスだったが、途中の峠みたいなところでパンクした。修理休憩。ロックフィルダムというのを初めてみた。この2件を思い出した。
7/26 スノーブリッジは健在だった
7/27 蓮如岩は確かに峠から見えた。この日は終日、沢登り、沢下りだった。なんと、地下足袋にワラジ装束だったらしい。道理で数年前まで新品のワラジと地下足袋が残っていた。捨てたけど、記念に残しておくべきだったか?
白山主稜に登ってから、雨、風、濃霧で何も見えなかったのは覚えている。特に山頂付近では迷いそうだったので神経を使った。
7/31か8/1:ボクは先輩K氏と一緒に早く下山したらしい。他大学で事故がありK氏はなにか役割があったらしいので。大白川ダム湖の色がグリーンをしていたのに驚いた。
■相変わらずの雨と風、濃霧の夏合宿だった。この年は天気が悪く、盆明けまで変な天気が続いていた。なにも見えなかった合宿という記憶。下見のほうがよほどエキサイティングだった。
1969年6月
夏合宿で、笈ヶ岳から白山主稜線上の国見山まで歩きたいというので下見にいった。
結論は、笈ヶ岳までは何とかなるかもしれないが、それ以上は「無理」。
それはともかく、大笠山は登りでのある山だった。
境川のスノーブリッジは圧巻だった。
それからの行動がミステリー!
相棒のE君にも確認したが、白山の西側へ降りたのは間違いない。下見なので、国見山(瓢箪山の西)の方も確認しに行っているはずだが覚えていない。
今でも覚えているのは
1.バテバテになって谷を降りていくと工事現場に来て(多分スーパー林道)そこで、先へ進めなくなった。やむなく暗くなった中でビバーグ。朝起きてみるとダイナマイトがあった!
2.翌朝、山越えをして里に着いた。
工事中の場所なので、道迷いの不安はなかったが、かなり消耗した。
その場所が分からない。
下に地図を張っておくが、エリアはそうかもしれないが、国見山からこんな尾根を降りられたのか?また翌日の山越えはこんな高い山越えだったか?まったく思い出せない。
1969年4月26~30日
4/26 大和上市-柏木-入之波-三之服出合TS(三之公谷出合、だと思う)
4/27 TA-南服谷田行(南股谷溯行、だと思う)-カオル峰鞍部TS
4/28 TS-池木屋山TS
4/29 TS-赤倉山-明神平TS
4/30 TS-丹生川上神社中社-下山
全然覚えていないが、池木屋山を通ったことは覚えている。地図があったので大まかには分かっが、公式報告書に誤植(三之服出合=三之公谷出合、だと思う)、(南服谷田行=南股谷溯行、だと思う)があり、予測して読み替える必要があった。結果、へえー、そんなところを溯行したのか!
台高主稜・ヤジベエノコルから池木屋山-赤倉山まで表示
1968年11月1〜6日
11/1 安掛−田歌−五波谷−五波谷峠−染ヶ谷TS
11/2 TS−権蔵坂−内杉谷−須後−中のツボTS
11/3 TS−長治谷−杉尾峠−野田畑峠−長治谷TS
11/4 TS−三国峠−クチクボ峠−生杉−小入谷−(根来峠)−大倉谷TS
11/5 (TS−根来峠−上根来−木地山峠−木地山−)
11/6 予備日
ずいぶん昔だが、当時、若丹国境の峠越に凝っていた。国境縦走も考えたが、当時はブッシュでやっとこさで通過したというパーティがあるくらいだった。この峠越は自分の企画が通った山行だったので、思い出深いものだ。その割には後半、根来峠までは覚えているが、木地山峠まで行ったのかどうか、あやふやだ。計画では木地山峠越まで、報告は根来峠ピストンだが、予備日は11/6である。
■11/1 五波谷峠
今のように林道ができる前なので、五波谷を遡行した。谷の様子は全然覚えていないが、峠は写真があるのでよく覚えている。ササのブッシュ状態で、尾根通しはやっぱり無理やなあと思った。
染ヶ谷のどこかでテントをはったが、ある家の軒下に「祝甲子園出場・・・若狭高校」という手ぬぐいが干してあった。そうか、若狭高校といえば川藤だ!川藤がいた若狭高校が甲子園に出たのか、と納得した。
今は五波峠と言っているようだが、標柱には「五波谷峠」とはっきり書いてある。
■峠2題
この2つの峠がどこかよくわからない。
染ヶ谷から権蔵坂に登ったのは間違いないが、権蔵坂?杉尾峠、野田畑峠が候補なのだが・・・
■11/2 京大演習林
内杉谷を下った。入林手続きで須後にピストンしたが、ちょうど林道を作っていて伐採も始まっていた。演習林なのでなんで伐採するの?と奇異に思った。
中のツボとはどこや?
■11/3 長治谷作業所
写真があるので広場はよく覚えているが、その日行った峠はまったく覚えていない。
■11/4 根来峠
三国峠、クチクボ峠は記憶がないが、生杉の集落はよく覚えている。3日間山の中だったので、里の光景が懐かしかった。
さて、ここからが問題。根来峠はピストンしたのか?
根来峠西の稜線上は伐採が入っていて明るかった。
根来峠から百里ヶ岳を望んだことはよく覚えているが、はたして越したのかどうか?
地図をみると、いったん上根来に降りて、木地山峠に登り直したように書いている。
根来坂を降る途中、P706の巻き道の修正や、岩?があったこと、木地山峠に登る途中の水場記号を描いている。
これは木地山峠は遠ったんかな?それとも計画図かな?
■もういちど真剣に若狭越を調べてみたい気がしている。
1968年10月?日
路原−在原−別荘地−明王禿−赤坂山−粟柄越−寒風山−大谷山−原山峠−森西−新保
どうしてここを選んだのか?ずいぶん昔なので調べてみた。
当時、若丹国境の峠越からはじまり、江若国境の若狭越に興味が出てきていて、調べつつあった。
森本次男さんの「京都北山と丹波高原」を見ていると、箱館山の近くに古い若狭越「近江坂」があると。そこで地図を買ってみたらたしかにある、さらに見ていると「明王の禿」だと。しかもその背後の山稜は草原だという。当時、草原山稜にも興味があった。
ルートは、信州のどこかに行った帰り、路原から入った。どこかでテントを張ったか駅で泊まったか、忘れてしまった。
なお、赤で書いた乗鞍岳−黒河−三国山のコースは、今はなんちゃらトレイルなどというハイカラな名前を付けているが、当時はそんなチャラいものはない。なにしろ江若鉄道の時代だ。明王の禿や赤坂山など見向きもしなかったのではないか。
かくして明王の禿、今日のパートナーは同期のN君だ。
■路原から明王の禿
国土地理院5万図
400×300pic以下に縮小
■明王の禿
ガレ場に道があったのかどうか忘れたが、多分道があったのだろう。
ルートを外してガレ場を1mほどずり落ちたことを覚えている。
明王禿の横に小屋記号を描いているが、はたして小屋があったのかどうか?
大キスリング、テント、世帯道具のフルセットで来ている。たぶん、こんな脇道があったのかと思うが忘れてしまった。
■草原
時節柄、ススキの原。どこがどこやら分からない。粟柄越はじっくり見るのを忘れた
三国山か赤坂山かよくわからなくなった。
■原山峠
大谷山を過ぎ、谷に降りて行くが、当時は薄暗い谷でなく灌木の明るい谷だった。 手書きで原山峠と描いているが、それは森本さんが仮にそう書いていたのをそのまま踏襲したのだった。
■N君が写真を撮ってくれたので、比較的記憶にある。
今はトレイル志向ではなく、真剣に若狭越を調べてみたい気がしている。
1968年7月17日~29日
7/17 大曲-北野-真木-七瀬沢あたりTS
7/18 TS-薬師岳-和賀岳TS(雨、風、濃霧)
7/19 停滞(雨・濃霧)
7/20 停滞(濃霧)
7/21 停滞(濃霧)
7/22 停滞(濃霧・強風)
7/23 撤退下山-真木-大神成-栗沢-白岩TS
7/24 TS-広久内-生保内-ヒヤ潟-国見温泉TS(快晴のロード)
7/25 TS-横岳-秋田駒-千沼原TS
7/26 TS-乳頭山-田代平-小白森山-大白森小屋TS
7/27 TS-曲崎山-大深岳分岐-三ッ石山-三ッ石小屋TS
7/28 TS-大松倉山-鬼ヶ城分岐-(岩手山は撤退)-七滝(台風接近・暴風)
7/29 牧場
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散々な山行だったが、それだけに思い出に残る経験だった。
7/16 盛岡経由ということは急行で東京まで行ったあのときか!東京までずっと雨だったけど。
7/17 夜中に急に雨が降り増水、テントサイトまで水が来た。グランドシート、シュラフなど水びたし。テントをたたむ時にまた水に漬けざるをえなかった!隣のパーティは、鍋、食器など流されてしまった。しかし何とかするもんだ。
7/18 天気は悪いが登山開始。霧のなかから急に薬師岳の岩場が見えた時には感動した。岩信仰も分かる気がした。和賀を越えた鞍部あたりでテント。雪田、水があった。
本来は尾根伝いに北へ、モッコ岳-五番森-仙石峠-国見峠-秋田駒、と縦走するはずだった。ブッシュの好きの計画だった。
国土地理院5万図/399×295pic
7/19-22 何もかも水びたしなのでカッパを着て寝る。濃霧、雨、強風で食べる以外何もすることがない。できることは全部やって、することがなくなり、A君がトランプを作った。それでひとしきり遊ぶ。なんとかするもんだ。
7/23 発電所のダムを渡った。東北らしい田舎道をゆく。
7/24 下山すると真夏日。その炎天下のロードだった。ちょっとした大きさの橋のたもとで休憩。暑いが風が涼しかった。新しいガードレールの真っ白が目にまぶしく、いかにも夏の感じがした。
この光景が、以後、ロードがちょっと好きになった原因だと思っている。結局、秋田駒ヶ岳山麓の国見温泉まで歩く。
7/25-27 絶好の登山日和。一番よく覚えているのは、千沼原~乳頭山あたりの池塘の高原だった。普通は見慣れない光景だから。だれかが「ミゼットが走る道や」と言っていた。
千沼原~乳頭山付近
国土地理院5万図から
400×278oic
国見温泉~秋田駒
国土地理院5万図から 287×398pic
7/29 生きた鶏一羽が食材に出た!だれがつぶすねん?となり背に腹は変えられないのでツブしたけども。包丁が切れない!医学部はさすがにツブすのが上手いことがわかった。もみじ足のついたまま焼いてやった。
■人間は窮地に追い込まれても、なんとかするもんやなあと実感した。だいぶん、細かいことには動じなくなったぞ。
東北のイナカの風景もよかったが、そのロードウォークもなかなか味がある。ロード好きを自覚した。
1968年4月27~5月1日
4/27 柏木-不動窟TS
4/28 5:30TS-神之谷-中谷-9:40尾根中腹(雨)-11:00小白鬚-14:05白鬚岳-16:00大鯛峠手前TS
4/29 6:45TS-7:10大鯛峠-P1319(右折)-10:55P1261手前コル-11:30P1261-13:25赤倉山2つ手前コルTS
4/30 5:45TS-7:00赤倉山-8:05水場-8:55P1380-11:15伏木小屋TS
5/1 下山
白鬚岳という名は覚えているが、あとはほとんど覚えていない!トレーニングでボッカトレも兼ねていたので一時的にmax35kgにしていたはずで、山容や景色を覚える余裕はなかった。
4/28 雨がパラツク中、植林帯の急坂を登ったことを覚えている。スギかヒノキか忘れたが、若木だった。
4/29 P1319を越えたあたりで足がつった。尾根は踏み跡はあったがササがびっしり生えていて、昨日の雨でひざ下がずぶ濡れになって冷えたものと思われた。
■ホンマに覚えてないなあ。
あまりよく覚えていないが、下山した後、大叉か丹生川上神社中社で報告会をしているところか?
1967年冬、初めての六甲全山縦走。
当時は塩屋が起点だった。6:00塩屋発で、すぐに尾根に上がった。ちょうど大規模な住宅開発で、縦走路は工事現場の横を通るような塩梅だった。(今は須磨浦公園が起点となっているらしい)
市ガ原までは快調だったんだけどなあ。顛末は表に書いた通りだ。
当時、平均所要時間が11時間ということだが、多分12時間くらいはかかった(塩尾寺まで)。早いヤツはなんと6時間27分(主将だったが)、同期のベストは7時間7分だった。いったいどんな心臓してるんやろ。
ちなみに翌年は明るいうちに着いたので、多分4時頃、塩尾寺着だった思う。ちゃんと学習はしている。
柳田國男 講談社学術文庫
2007年8月(8/4) お気に入り度:★★★★ ------------------------------------------
もう何十年も前のことになりますが、大阪に出てきてはじめての冬、六甲全山縦走をしたときの話をします。
毎年冬(12月の第1日曜だったと思う)になると、部の正式行事として塩屋から宝塚まで六甲の全山縦走をするのでした。速い人は文字どおり縦走で、朝6:00に塩屋を出発して昼過ぎには宝塚(ゴールは塩尾寺(えんぺいじ)に設定)に着くのですが、走るのが遅い者はほとんど歩いて、夕方につけばよい、というものでした。私は初めてで様子も分からないので、時々は走るにしても歩くつもりでした。
大まかなコースは、塩屋をでて、須磨浦公園の後ろの山を走り、横尾山(だったか?)を通過、いったん町に降りて再度、高取山に登る。それから鵯越を通って(通ったと思う)、菊水山、再度山、市ケ原、摩耶山、六甲山上、最高峰パラボラ(今となっては死語)、東六甲縦走路、塩尾寺、宝塚というものでした。
最初は快調(なにしろ荷物がないからね)、どんどんとばします。午前中の関門である菊水山も快適に登頂。冬というのに赤いツツジが咲いていたのを覚えています。
さて、摩耶の登りも約半分に差しかかったときの話です。ゆっくりした登りなのですが、がくっとスピードが落ちました。それでも必死の思いで一歩一歩、階段状の坂道を登ろうとします。が、足を階段にかけて体を持ち上げるのが精一杯です。一段上がってはふうふう、一歩歩いてはふうふう。こんな状態に陥りました。そのうち、足を上げるのさえもおっくうに。歩くより休む時間の方が多くなってしまいました。どんどん他の者にも追い抜かれるしまつです。しかし、前に進まないにどうにもならないので、休み休み登りとおし、やっと摩耶山に着きました。このとき、私は「ひだる神」という妖怪に取り憑かれていたと、今思うのです。
柳田さんによると、あちこちでこういう話が報告されていて、どこでもというより、ある限った場所で起こっているのだそうです。例えば、伊勢から伊賀に越えるある峠(柳里恭、「雲萍雑志」巻三)、熊野の大雲取小雲取の山中、和歌山県西部の糸我阪(和歌山県誌下巻)、室生寺の参詣道(高田十郎、「なら」第二十七号、奥宇陀紀行)、長崎県温泉岳の字小田山・辻(井上圓了、「於ばけの正体」)、長崎県南高来郡愛野村岩下越(本山桂川「土の鈴」第四号)。場所によって違いますが、「ダル」とか「ダリ」といったり「ヒダル神」や「ダラシ」といったりしているようです。
なんでも、食べ物を持たずに腹をへらして通ると「ヒダル神」がとりついて一歩も動けなくなり、あるいは体中がダラシなくなり、かといって休んでいると別に苦痛はない。なにか口にしたり(木の葉っぱを噛むだけでもよい)手に「米」の字を書いて嘗めるマジナイでも助かる。 餓鬼がとりついたり、餓死者の怨念がその場所に漂っているという謂がある、と、こうありました。
これは、私の状況と同じです。その時は「街中も通るのでパンやジュース位はあるだろうし、六甲山上は街だ」として何も持っていませんでした。歩きはじめて3~4時間たっていて、空腹になっていたのは確かですが、動けないほどでもない。確かに、摩耶山上でパン(か何か)を食べたら一遍にもとに戻りました。あの状態は何だったのか?よくいう「シャリバテ」かと思っていたら、「ヒダル神」がとりついていたんですね。(実はもう一ヶ所あって、それはユングフラウの氷河の上ですが、半分は高山病が原因か?あの時もレストランでわずかに残っていたケーキを食べたらケロッと直ってしまいました)
まあ、生理学的には「シャリバテ」なんでしょうけど、昔は山の中や旅の途中で動けなくなったら命取りですからね、こういう話が旅の難所では幾度もあって「ヒダル神」の話になったのでしょう。ヒダル神は旅の安全の警告神だと思っています。
それ以後、山行はもちろんのこと、どこか遠出するときは必ず、非常食(とはたいそうですが、ピーナツとかチョコとかアメとかなにか)を携行して、何かあると歩きながらでもポリポリ食べるようにしています。もちろん、次の年の六甲全山縦走は快適に歩きとおしました。 どうもこの経験のない人と一緒に行動するときは、「山頂で昼飯」とか「あそこまで行って昼飯」とか「みんな一緒に昼飯」とか理屈に合わないことをいうので困ってしまいます。
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1967年11月井1日~6日
■日程・コース
11/1 大阪-広河原-佐々里峠
11/2 佐々里峠-灰野(須後へ入林手続き)-七瀬
11/3 七瀬-由良川本流溯行-中山(行きすぎた)-岩谷出合
11/4 岩谷溯行-三国岳北コブ-三国岳-イヤ谷-三軒家-久多下
11/5 久多-オグロ坂-八丁平-峰床山-尾越
11/6 尾越-大見-ヒノコ-百井峠-鞍馬-大阪
由良川源流核心部の溯行と三国岳、オグロ坂、八丁平、峰床山を組み合わせた、芦生+北山ゴールデンコースだ。
ボクは由良川下流で育った人間なので、上流を歩きたかった。この山行でボクの以後の山行が決まったといってもいいくらいのエキサイティングな山行だった。残念ながら写真はないので古い地図だけ。
11/1:尾花谷を遡ってドンツキを登ると、ひょいと佐々里峠に岩室に出た驚きはよく覚えている。
11/2:灰野で入林手続き隊が帰ってくるまでぶらぶらしたこと、灰野から七瀬までは軌道跡をバンバン飛ばした。
11/3:水量は少なく特に難儀なところはなかったが、一ヶ所だけ淵の上をヘツルときにキスリングが岩にあたるので、細引きで引っ張りあげたのを覚えている。溯行ルートはうまくできたもので、喫水線より少し上のところにステップがあり、靴は濡らさずにすんだこと、川べりで休憩中に魚が寄ってきて掴みそうになったのはよく覚えている。
11/4:岩谷溯行で、途中で北尾根に取付いた気がしていたが、南の尾根に取付いたらしい(報告書より)。
三国岳の北峰に至ると、周囲は見事な紅葉で、ふかふかの落葉の上を歩いたのはよく覚えている。そこで見た衝撃の光景。北峰をみて尾根を歩いている時、平たい北峰の頂上付近、谷が始まろうとしている所に、リヤカーの残骸があった!大八車だったかもしれないが、なんでこんなところにあるの?と思った。
三国岳の登りはササのブッシュだったらしいが、全然覚えなし。そこからの下りの様子もまったく覚えなし。
三軒家というのはよく覚えている。2015年春に通ったが、まだ家はあった。
11/5:オグロ坂は全然覚えていないが、八丁平はツゲがたくさん生えていて、そこを掻き分けながら峰床山に登った記憶はある。夜、尾越の家(区長さんらしかった)にお邪魔したのを覚えている。
■あまりたいしたことは覚えてないな。しかし、芦生、北山の良さは身に沁みついた。